もーめんたむ。

公開日記のようなものです。

神のサイコロはどう見えるか

こんにちは、はみるとにあんです。ゴールデンウィークが近づいてきましたが、連日雨が続くそうです。どのみち家にこもるので関係ないですが、少し憂鬱な気分になりそうですね。(雨は嫌いじゃないですが晴の方が好きなので!)

 

 

今回は物理学の話です。最近、量子力学を本格的に(?)勉強しているのですが、その時になんとなく思ったことを書いていきます。これは、未来の自分が、過去の自分は物理学という学問を(または量子力学という学問を)どのように考えていたかをここに戻って読めるようにするための「書き置き」みたいなものですので、あまり固くならずに読んでくださると幸いです。

 

 

量子力学という学問は、簡単に言うと「ミクロな世界の物理法則を理解する学問」だと言えます。19世紀末までにほぼ完成した古典物理学(主にニュートン力学とマクスウェル電磁気学)は我々の目に見える現象を十分な精度で記述することが出来たため、神羅万象あらゆる現象は全て(時間をかけさえすれば)古典物理学によって説明できると考えられていました。しかし20世紀初め、実験の精度が上がると古典ではどうしても説明できないような現象が報告されるようになり、我々が肉眼で見ることの出来ない非常に小さな世界(ミクロな世界)は古典とは全く別の(しかも直観とはかけ離れた)物理法則に支配されていることが次第に明らかになりました。その後天才たちによってミクロな世界を記述する量子力学が確立され、現代物理学の根幹をなす分野となったのでした。

 

というのが、大体の(前期量子論から入るタイプの)量子力学の教科書の初めに書かれていることです。量子力学の教科書あるあるです。この「物理学に革命が起こった」感のある導入、僕は結構好きですね。実際、20世紀初めというとアインシュタインの(特殊)相対性理論も発表されたので大革命の時期と言っても過言ではないと思います。

 

僕が今勉強している時に主軸として使っている本は、清水明先生の「新版 量子論の基礎」で、図書館から借りて使っているのですがあまりにも良い本なのでAmazonで購入しようと思ってます。というのは、清水先生は、理論を公理的に(しかも、最も適応範囲が広くなるように)展開してくれるので安心感が段違いなんです。研究者になっても、たぶん手元に置いておくと思います。

 

ここからが本題なのですが、量子力学では頻繁に虚数を使ったり、物理量が演算子になったりします。この事実は以前に量子論をさらっと勉強したときに知ってはいた(使ってもいた)のですが、どうも、もやもやしてたんですよね。古典力学電磁気学でも虚数は登場しますが、それは計算にかかわる過程で使っているのであって、その理論の本質と深く関わっているわけではないと思います(「思います」というのは、たとえば減衰振動の解はネイピア数の肩に虚数単位を乗せて振動を表しているので、果たしてこれが減衰振動という現象の本質を表していないと言えるのだろうかなどという疑問が自分の中にまだあるという躊躇いの表現です。まあこれは三角関数に分解できるので、単に数学的表現に虚数が登場したというだけのことだと納得することは出来ます)。

虚数はまだしも、物理量、例えばエネルギーなどが演算子になるとはどういうことだ!と、本で一応の説明はされていても全く腑に落ちなかったんです。状態ベクトルにある物理量を表す演算子を作用させると固有値として物理量の値を吐き出す、という操作自体は納得できても、別にそんなことしなくても初めから物理量を離散変数として使えばええやん、なんなん演算子って。と若干切れ気味で量子力学を勉強してたのが去年の夏あたりです。

 

このようなもやもやを一気に解決してくれたのが清水先生の本でした。

まず、量子の世界での可観測量(物理量)はその測定値にばらつきがあるため、正確に予言できるのは物理量の確率分布である。というのが量子論の基本的な枠組み(要請)です。つまり、我々が知り得るのは確率分布だけであり、ある時刻tでの物理量を予言することは(原理的に)不可能だということです(例えば、サイコロを振るときに出る目は全く予言できないが、ある特定の目が出る確率は明らかに六分の一である)。そして、確率分布の具体形さえ求まればよいのだから、「物理量」やその系の「状態」は、変数でなくても、理論の中にしか存在しないような抽象的な量で表現しても問題ないということになります。

「もしそうだとしても、なぜそんな面倒なことをするのか」と思うかもしれませんが、それには次のように答えられます。問題ないのであれば、どんなに抽象的でも「自然現象を記述するのに最も適した(自然を最もよく記述できている)数学理論(ことば)」を採用するのが経験科学としての物理学の立場なのです。つまり、「確率分布が求まるならどんな理論でも良かったが、虚数(複素ヒルベルト空間)や演算子を使ったら一番上手くいったので、これを量子論として採用している」ということです。これは、物理学という学問が経験科学=実験結果こそが最大で唯一の基盤であるという性格を持つ学問であることに由来した結論です。実際、演算子形式とは見た目が違う「経路積分形式」という理論があり、これも同じような確率分布を与えます。

 

考えてみれば、我々の目に見えない物理現象でさえも我々が直観的に理解できるように作られていると信じるほうが無謀であるような気がしてきます。仮に神様がいて、神様が作った自然現象のプログラムが、その出力結果をただ見ているだけの我々人間が理解できるような言語で書かれている必然性はどこにもありません。

 

(この記事を書いている最中に気づいたのですが、「抽象的な数学を使う」ということと「直観とかけ離れた現象を記述する」ことを混同(同一視)してしまっている可能性が出てきました。後で修正します)

 

物理学とは、自然のプログラムを、我々が知る言語(数学)で理解しようとする営みです(我々が仮に知り得ないCで動くプログラムの出力だけを見て、その出力をできる限り精度よく再現するようなプログラムを我々がよく知るPythonで書き直す、という行為と似ている)。出力結果(実験結果)だけをもとにして、それがどのような原理で動いていたのかを探求するのは、まさに神への挑戦とも言えます。

 

実に驚異的なのは、量子論のように直観とかけ離れた実験結果でさえも良く記述できるような数学理論が存在することです。これは量子論に限らず物理全体に言えますが、数学は無限の自由度があるにも関わらず物理現象を(不条理なまでに!)説明する、人類が持つ最強の言語です。

 

話しがまとまらなくなってきましたが、言いたかったことは「なぜ抽象度の高い数学を使う必要があるのか」という問いに対しては、「物理学は実験結果に基づく学問なので、抽象度が高かろうが実験結果を良く説明する数学を使うべきである」と答えるのが(現時点での僕の)ベストだということです。

 

 

自分でまだ(この記事に対して)納得できない部分はありますが、寝てないので寝ようと思います(午前4時くらいから書き始めた)。次回は、まあ何か適当に書こうと思います。

 

それではまた!