もーめんたむ。

公開日記のようなものです。

名状しがたい近況報告のようなもの(短め)

みなさんお久しぶりです。ブログを投稿するのはいつ以来かな~と見てみたら最後に書いたぼざろの記事が1年前でひっくり返っています(そういえば去年のこの時期はコロナに苦しみながらアニメを観ていたな・・・)。今暇なので短い近況を書きます。

 

とりあえず私は大学院進学が決まり、まだ研究者を目指せる環境に身を置くことが出来そうです。私は子供の頃(小学校4年生辺り?)から、何となく研究者というものになりそうだな~どうなのかな~といった感じで生きてきたわけですが、まだその道から外れそうにはありません。

ちなみに物理学科に入学したときは、例に漏れず素粒子の理論をやろうと企んでいたのですが、気がつけば生物物理の研究に携わっていたのでした(ちなみに物理化学もやっている)。3年前の自分は生物物理に全く興味がなかったので、劇的ビフォーアフターです。こうなった理由は主に2つで、一つは物理学の学術本をたくさん読み視野が広くなったこと(特に田崎熱力学で変わった!)。もう一つは今お世話になっている教員(来年から正式に指導教員)と出会って、生物物理学の魅力を知ったことです。

 

そんなこんなで今の私は、生物を舞台にして統計力学チックな物理の研究しています。統計力学は物理学の中で一番好きな分野なのでとても楽しい。その合間に卒業研究の化学熱力学や別のお勉強したり、友達と麻雀したり、海外のVtuberの配信を観て英語学習をしています。自分のやりたいことが出来ていてそれなりに幸せです。両親に感謝。みんなも幸せに生きてくれ!

写し鏡と理想の像

最近『ぼっち・ざ・ろっく!』というアニメに自分でも驚くほどのめり込んでいる。原作はまんがタイムきららMAXの4コマ漫画である。極度の人見知りで陰キャの後藤ひとりは、売れ線バンドのギターカバーを配信をする日々を送っていたが、「結束バンド」のドラム担当・伊地知虹夏に強引に勧誘されて結束バンドのギター担当になってしまい・・・という導入から始まる物語である。この記事を書いている時点で第5話まで放送されているが、とにかく面白い。私は原作の漫画を読んでいないが、TwitterYouTubeを観る限り、原作理解度が非常に高くストーリーの順序入れ替えやアニオリを適度に混ぜて上手くアニメに昇華しているらしい。制作陣のセンスが大爆発しているのは原作を読まずとも確かに感じる。特に後藤ひとりの顔面崩壊芸の多様さには目を見張る物があるだろう。楽曲も素晴らしく、配信サイトでTOP10にランクインしているようである。未視聴の方は是非観てほしい。

 

 

※ここから『ぼっち・ざ・ろっく!』アニメ第5話までの若干のネタバレを含みます

 

 

『ぼっち・ざ・ろっく!』の良さ・面白さを上げればキリがないが、多くの人がこの作品に魅了される理由の一つは、後藤ひとりが「現実」と「理想」の両方を内包しているキャラクターだからであると考えている。視聴者は彼女の悩みに共感し自分の現状とリンクさせると同時に、無意識に自分の理想像を彼女のソロギタリストとしての才能に見出しているのだ。これについてもう少し詳しく書いていこう。

 

まず、後藤ひとりの悩みには驚くほどリアリティがある。後藤ひとりは第一話で自身のチャンネル登録者数が3万人を超えたとき「もう学校行きたくないなあ」と考えてしまう。この一言には、結束バンドに入る前の後藤ひとりという人間のほぼ全てが詰め込まれている。後藤ひとりはギターを始める前から、変わりたい・輝きたいという強い願望が人一倍あったはずだ。そうでなければ、バンドなら陰キャでも輝けることを知って突然ギターを始めるはずはないし、毎日6時間練習する気も起きないはずである。そして3年間の努力の末にたどり着いた居場所は現実のバンドではなくネットの世界だった。ネットの世界は唯一無二の輝ける場所であり、いつもひとりぼっちだった彼女にとって学校という現実には価値を見出せなかったのである。それは彼女の「人と関わりたいけど怖い」という性格を考えれば仕方のないことである。

 

「人と関わりたいけど怖い」という性格は後藤ひとりの"相対的な"自己肯定感の低さに起因していると考えられる。第一話の最初のシーンで「私なんかがあの指に止まっていいのかな・・・」と幼少期の頃に考えていたことから、相対的な自己肯定感の低さは彼女の人格形成前から存在する根本的なものだろう。周囲に人間がいない時、あるいは自分一人の世界に浸っている時の彼女の自己肯定感は決して低くはないが、人と関わる場合のそれ(すなわち、相対的な自己肯定感)は絶望的に低い。このギャップは、彼女の言動の面白さに直接結びついていると感じる。

 

この性格のお陰でバンドメンバー集めは全く実らなかった訳だが、彼女は「他力本願で物事上手くいくはずない」と分かっている。分かっているが性格上人に話しかけることは出来ない。だから上手くいかない現実より輝けるネットの世界の住人になりたいと考え、学校に行きたくないと思ってしまう。最後の「学校に行きたくない」という結論に至るのは飛躍に思えるが、3年間の積み重ね(学校での失敗+配信の成功)と未熟さを考慮すると高校1年生の悩みとしては寧ろ自然な思考と言えるだろう。

 

結束バンドに加入してからの後藤ひとりは、自分と結束バンドの努力・成長について考えることになる。第2話では「少しずつでも変わる努力をして"一緒に"楽しくしたい」という、他人が入り込んだ感情が芽生え始める。第5話では「自分の努力」と「バンドとしての成長」の間で思い悩むが、伊地知虹夏との会話を通して、自分がバンドをやる理由を考える。そして「私だけではなく4人でチヤホヤされたい」という新たな願望を見出した。このように彼女の「変わりたい」「成長したい」という、初めは漠然としていた強い欲求は、丁寧な段階を踏んで進化している。この感情の変遷には伊地知虹夏が(良い意味で)一枚噛んでいるのだがこれについては別の記事で書くかもしれない。

 

後藤ひとりの悩みにリアリティを感じるのは、当然我々が同じように悩んでいたことがあるからだ。このリアリティによって視聴者は彼女に共感する。それはつまり「変わりたい・輝きたい」とか「自分の殻を破りたい」「成長したい」とか考えている人間を、"陰キャ"という属性を持たせる事で大胆に体現したのが後藤ひとりということである。そういう意味で後藤ひとりは、成長したい全ての人間の代弁者たる存在であると私は考えている。

 

だが、後藤ひとりは代弁者であると同時に我々の理想像でもある。それは「ギターヒーロー」という理想である。『ぼっち・ざ・ろっく!』で描かれるのは確かに成長物語なのだが、彼女のギターの腕前は物語冒頭で既に完成されている。この物語で描かれる彼女の成長というのは、心の成長と"結束バンドのギタリスト"としての成長であって、「ギターヒーロー」としての成長ではない。彼女が序盤から持つギターの実力は、彼女の「輝きたい」という欲求に由来する、3年間の努力の上に成り立つ実力である。輝きたいという願望を持つ視聴者は、ここに後藤ひとりの「到達点」としての側面を「ギターヒーロー」として"無意識に"認識する。

 

その結果視聴者は、後藤ひとりが我々の「写し鏡」でありながら目指すべき「理想像」でもあるということを、深層心理では理解しながらも、自分では気付かぬまま作品に魅了されてしまう。彼女が持つこの性質は、視聴者の「何者かになりたい自分」に対する「成長し輝いている自分」というイデアを見事に想起させることに成功したのである。このイデアの想起こそが、この作品の隠れた本質であり最大の魅力であると私は思っている。

 

以上の論は、『ぼっち・ざ・ろっく!』を見て楽器を触りだす人の数が多い事実により支持される。アニメを観て何かを始めるには、その作品から「共感」と「理想」の両方を強烈に感じ取る必要があるからだ。私の狭いコミュニティでさえ、少なくとも3人が、このアニメの影響で何かしらの楽器を始めようとしている(かくいう私もギターを始めた)。この作品には、視聴者の心を揺さぶり行動させる「魔力」があると思えてならない。その「魔力」に誘われて私は今この文章を書いている。

「魔力」の効果がいつまで続くのか、私には見当もつかない。

神のサイコロはどう見えるか

こんにちは、はみるとにあんです。ゴールデンウィークが近づいてきましたが、連日雨が続くそうです。どのみち家にこもるので関係ないですが、少し憂鬱な気分になりそうですね。(雨は嫌いじゃないですが晴の方が好きなので!)

 

 

今回は物理学の話です。最近、量子力学を本格的に(?)勉強しているのですが、その時になんとなく思ったことを書いていきます。これは、未来の自分が、過去の自分は物理学という学問を(または量子力学という学問を)どのように考えていたかをここに戻って読めるようにするための「書き置き」みたいなものですので、あまり固くならずに読んでくださると幸いです。

 

 

量子力学という学問は、簡単に言うと「ミクロな世界の物理法則を理解する学問」だと言えます。19世紀末までにほぼ完成した古典物理学(主にニュートン力学とマクスウェル電磁気学)は我々の目に見える現象を十分な精度で記述することが出来たため、神羅万象あらゆる現象は全て(時間をかけさえすれば)古典物理学によって説明できると考えられていました。しかし20世紀初め、実験の精度が上がると古典ではどうしても説明できないような現象が報告されるようになり、我々が肉眼で見ることの出来ない非常に小さな世界(ミクロな世界)は古典とは全く別の(しかも直観とはかけ離れた)物理法則に支配されていることが次第に明らかになりました。その後天才たちによってミクロな世界を記述する量子力学が確立され、現代物理学の根幹をなす分野となったのでした。

 

というのが、大体の(前期量子論から入るタイプの)量子力学の教科書の初めに書かれていることです。量子力学の教科書あるあるです。この「物理学に革命が起こった」感のある導入、僕は結構好きですね。実際、20世紀初めというとアインシュタインの(特殊)相対性理論も発表されたので大革命の時期と言っても過言ではないと思います。

 

僕が今勉強している時に主軸として使っている本は、清水明先生の「新版 量子論の基礎」で、図書館から借りて使っているのですがあまりにも良い本なのでAmazonで購入しようと思ってます。というのは、清水先生は、理論を公理的に(しかも、最も適応範囲が広くなるように)展開してくれるので安心感が段違いなんです。研究者になっても、たぶん手元に置いておくと思います。

 

ここからが本題なのですが、量子力学では頻繁に虚数を使ったり、物理量が演算子になったりします。この事実は以前に量子論をさらっと勉強したときに知ってはいた(使ってもいた)のですが、どうも、もやもやしてたんですよね。古典力学電磁気学でも虚数は登場しますが、それは計算にかかわる過程で使っているのであって、その理論の本質と深く関わっているわけではないと思います(「思います」というのは、たとえば減衰振動の解はネイピア数の肩に虚数単位を乗せて振動を表しているので、果たしてこれが減衰振動という現象の本質を表していないと言えるのだろうかなどという疑問が自分の中にまだあるという躊躇いの表現です。まあこれは三角関数に分解できるので、単に数学的表現に虚数が登場したというだけのことだと納得することは出来ます)。

虚数はまだしも、物理量、例えばエネルギーなどが演算子になるとはどういうことだ!と、本で一応の説明はされていても全く腑に落ちなかったんです。状態ベクトルにある物理量を表す演算子を作用させると固有値として物理量の値を吐き出す、という操作自体は納得できても、別にそんなことしなくても初めから物理量を離散変数として使えばええやん、なんなん演算子って。と若干切れ気味で量子力学を勉強してたのが去年の夏あたりです。

 

このようなもやもやを一気に解決してくれたのが清水先生の本でした。

まず、量子の世界での可観測量(物理量)はその測定値にばらつきがあるため、正確に予言できるのは物理量の確率分布である。というのが量子論の基本的な枠組み(要請)です。つまり、我々が知り得るのは確率分布だけであり、ある時刻tでの物理量を予言することは(原理的に)不可能だということです(例えば、サイコロを振るときに出る目は全く予言できないが、ある特定の目が出る確率は明らかに六分の一である)。そして、確率分布の具体形さえ求まればよいのだから、「物理量」やその系の「状態」は、変数でなくても、理論の中にしか存在しないような抽象的な量で表現しても問題ないということになります。

「もしそうだとしても、なぜそんな面倒なことをするのか」と思うかもしれませんが、それには次のように答えられます。問題ないのであれば、どんなに抽象的でも「自然現象を記述するのに最も適した(自然を最もよく記述できている)数学理論(ことば)」を採用するのが経験科学としての物理学の立場なのです。つまり、「確率分布が求まるならどんな理論でも良かったが、虚数(複素ヒルベルト空間)や演算子を使ったら一番上手くいったので、これを量子論として採用している」ということです。これは、物理学という学問が経験科学=実験結果こそが最大で唯一の基盤であるという性格を持つ学問であることに由来した結論です。実際、演算子形式とは見た目が違う「経路積分形式」という理論があり、これも同じような確率分布を与えます。

 

考えてみれば、我々の目に見えない物理現象でさえも我々が直観的に理解できるように作られていると信じるほうが無謀であるような気がしてきます。仮に神様がいて、神様が作った自然現象のプログラムが、その出力結果をただ見ているだけの我々人間が理解できるような言語で書かれている必然性はどこにもありません。

 

(この記事を書いている最中に気づいたのですが、「抽象的な数学を使う」ということと「直観とかけ離れた現象を記述する」ことを混同(同一視)してしまっている可能性が出てきました。後で修正します)

 

物理学とは、自然のプログラムを、我々が知る言語(数学)で理解しようとする営みです(我々が仮に知り得ないCで動くプログラムの出力だけを見て、その出力をできる限り精度よく再現するようなプログラムを我々がよく知るPythonで書き直す、という行為と似ている)。出力結果(実験結果)だけをもとにして、それがどのような原理で動いていたのかを探求するのは、まさに神への挑戦とも言えます。

 

実に驚異的なのは、量子論のように直観とかけ離れた実験結果でさえも良く記述できるような数学理論が存在することです。これは量子論に限らず物理全体に言えますが、数学は無限の自由度があるにも関わらず物理現象を(不条理なまでに!)説明する、人類が持つ最強の言語です。

 

話しがまとまらなくなってきましたが、言いたかったことは「なぜ抽象度の高い数学を使う必要があるのか」という問いに対しては、「物理学は実験結果に基づく学問なので、抽象度が高かろうが実験結果を良く説明する数学を使うべきである」と答えるのが(現時点での僕の)ベストだということです。

 

 

自分でまだ(この記事に対して)納得できない部分はありますが、寝てないので寝ようと思います(午前4時くらいから書き始めた)。次回は、まあ何か適当に書こうと思います。

 

それではまた!

RED ZONE

こんにちは、はみるとにあんです。この記事を書いているのは2月16日で今は友人と通話しながらこの記事を書いています。友人は早く寝ろと言っていますが僕は当分起きています。帰省するまで多少時間があるので大丈夫です(?)

 

 

さて今回はミリシタのお話です。タイトルにもある通り先日開催されたイベント『RED ZONE』について振り返ります。僕が伝えたい感想は要約すれば「マジで超楽しかった、ほんと最高だった神」で済むのですが今一度思い出に浸りつつ記録に残していきましょう!

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(ここで早くも友人が寝てしまったので集中して書いていきます!)

 

 

初めに僕がいかにしてミリシタに出会ったかを書いておきます。アイマスを知ったのは2019年の夏あたり、あるYouTuberの影響で(その頃はまだ楽曲とかアイドルとかは知らなくて単純に彼のアイマスの動画が好きだった)、そこでデレステを始めてP業に足を踏み入れました。とは言ってもそれなりに忙しかったので本格的にではなかったです。時を経て4月・・・のちに桜守歌織のプロデューサーとして時間を捧げていくとも知らない自分は、ある楽曲のMVを発見してしまいます。それが「花ざかりWeekend✿」。僕にとって人類の至宝とも呼ぶべきそれー「『もしも人類の叡智が失われて、次の世代にたった一文だけ残せるのだとしたら』という問いに”原子仮説”か”花ざかりWeekend✿はいいぞ”のどちらか迷ってるうちに地球滅亡」くらいのものーはまさに「驚天動地」、短いオタク人生に大革命が起きるほどの衝撃を与えました。ほんと神。

花ざかりで語りたいことは山ほどあるので置いておいて(語彙力が消滅するのでもはや何も喋れないかもしれません)これでミリシタをインストールしないわけがなく遂に現在の超絶推しユニット・4Luxuryを知ることになります。そこから縁あって歌織さんを担当させていただくことになりました。

そんな4Luxuryのもう一つの楽曲、これまたマジ最高神曲の「RED ZONE」が今回リバイバル公演としてイベントとなるともう須らく最優先事項です。

 

イベントが正式に告知されたのは1月23日に開催された「ミリシタ感謝祭ONLINE2020~2021」内のライブパート後でした。まずライブパートのセトリがつよつよだったんですよね。4Luxury、D/Zeal、Cleasky、TIntMe!、ミリオン女学院、君彩・・・なんですかあれ。頼むからお金を払わせてくれって感じでした。初めてリアルタイムでぴらみ砲を聴けたのは感無量でしたね(というかライブすら初だったのでもう大興奮でした。大分うるさかった気がするので一緒に通話で見てくださった方々ほんとすみません)。花ざかりより先に、初めのパートでRED ZONEが来て何もなく進んだので一瞬「これは回避か!?」と思ったのですがしっかり次回のチューンイベントでしたね。Mさんと一緒に絶叫しました。一番来てほしいけど一番来てほしくなかったイベントが遂に開催となり、始まる直前まで本当に信じられなかったです。時間的には余裕(忙しかったが確保できた)でしたがジュエル数とPLv的にPRが妥当であると判断し最終的に469,315Pt(フォーラグ最高!)でポイント調整することにしました。

 

 

 

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そしてイベントスタート。2/1~2/9の約9日間です。開始後初日はTPRムーブをきめていました(端末の性能もあり少し遅かったですが)。前半戦はライブチケットを貯めてひたすらSentimental Venusを叩いていましたね。

 

 

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所持ジュエル全消費で前半戦終了。計算したらこの時点で70万ptくらいだったので完全オバランでした。これでも半日サボってたのでいいペースだった気がします。

ここから後半戦、RED ZONE叩きまくりです!

曲は言わずもがな本当にいいMVですよね。譜面も楽しいし。楽しすぎて今でも無限に叩けたと思います。

 

 

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調整完了!これにてイベント終了です。ワインが余りまくってしまいました。ちなみにRED ZONEが楽しくてなるべくたくさん叩きたかったので後半戦になっても初めの50回くらいは1倍でライブしてました。まだまだ出来たのですが時間的にキツめだったので途中からやむを得ず4倍になりましたが。調整は本当に上手くいってよかった・・・。

 

実はこれが初のイベランで(走り方は知っていたのですが)ポイント調整の仕方が分からず、必要なライブをどれくらい・どのタイミングでやるかを最終ポイントから逆算して0Ptから正確にプレイしていくものだと勘違いして皆さん天才ですか?と思っていましたw

まあチューンで割合補正が入ったので見つけた限りのサイトを使うのは少し難しかったのですが、僕の場合補正19%で端数切り上げだったのでイベ曲のポイントが正確に2倍4倍にならず結局新しい簡単なプログラムを作ったり手計算したりして求めました。一度プログラムでイベ曲1倍を143回プレイというとんでもない結果が出て大笑いしましたね。本当はこれで調整したかったんですが。

 

 

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終結果は上の通り。大満足で完走できました。しいて言えば200回以上叩いたのに一回もフルコンできなかったのは少し悔しかったです!ライブ自体は楽しかったので全く苦は感じませんでした。あと初PRです。

 

そんなわけでイベント「RED ZONE」は幕を閉じました。前にも書きましたがこのイベントは「一番来てほしいが一番来てほしくない」イベントだったのでいざ終わってしまうと何か喪失感に似たものを感じてしまいます。「RED ZONE難民」が言い得て妙かもしれません。Decidedという僕を刺したもう一つの曲があるので今回の経験をその時に活かしたいですね。あと歌織さんの3曲目を聴くまでは生きます。

 

何がともあれ、皆さんイベントお疲れさまでした。一緒に走ってくれた方ならびにアドバイスしてくださった方々はありがとうございます。本当に楽しかったです。次のReTaleは激戦の予感がする(らしい)ので僕は休養がてら横から応援しています。次回の記事は全く考えていません。

 

それではまた!

LaTeXの練習

こんにちは、はみるとにあんです。この記事を書いているのは1月5日で、今は学校のお昼休み中です。とは言いつつもオンラインなので家でごろごろしています。さっきお湯に溶かす用のココアを間違えて牛乳に溶かしてしまったので少し悲しいです。

 

先に伝えておきますが今回はLaTeX(数式をきれいに書けるやつ)をはてなブログでも正しく使えるかどうか検証するためのものでお話しすることはありません。以下、単に数式が並べられていくだけなのでここで閉じてくれて構いません。では行きます。

 

 オイラーの等式

\displaystyle{e^{i\pi}=-1}

 

和の公式

\displaystyle{\sum_{k=1}^{n} k = 1+2+3+\cdots+n = \frac{n(n+1)}{2}}

 

積分

\displaystyle{F(b)-F(a)=\int_{a}^{b}f(x) dx}

 

極限

\displaystyle{\lim_{x\to\infty}f(x)=\alpha}

 

マクスウェル方程式

\displaystyle{\nabla\cdot B=0}

\displaystyle{\nabla\times E +\frac{\partial B}{\partial t}=0}

\displaystyle{\nabla\cdot D=\rho}

\displaystyle{\nabla\times H -\frac{\partial D}{\partial t}=j}

\displaystyle{\partial_{\mu}F^{\mu\nu}=j^{\nu}}(相対論的)

 

アインシュタイン方程式

\displaystyle{R_{\mu\nu}-\frac{1}{2}g_{\mu\nu}R=\frac{8\pi G}{c^{4}}T_{\mu\nu}}

 

ディラック方程式

\displaystyle{i\partial^{\mu}\partial_{\nu}\psi -m\psi =0}

 

 

\displaystyle{ \langle F(\varphi) \rangle _{0}:=\lim_{\epsilon \to 0}\lim_{L \to \infty}\frac{1}{Z_{\epsilon,L}}\int_{-\infty}^{\infty}D_{\varphi}F(\varphi)e^{-S_{\epsilon,L(\varphi)}}}

 

\displaystyle{\partial^{\mu}F_{\mu\nu}=0}  or  \displaystyle{\partial^{2}A_{\nu}-\partial_{\nu}\partial^{\mu}A_{\mu}=0}

 

\displaystyle{L_{maxwell}=-\frac{1}{4}(F_{\mu\nu})^2=-\frac{1}{4}(\partial_{\mu}A_{\nu}-\partial_{\nu}A_{\mu})^2}

 

\displaystyle{(\partial_{\mu}\phi(x))^{2}\rightarrow g^{\mu\nu}(\partial_{\mu}\phi\prime(x))(\partial_{\nu}\phi\prime(x))=(\partial_{\mu}\phi)^{2}(\Lambda^{-1}x)}

 

いい感じですね。tex:の後は\displaystyle{}の中にコマンドを打ち込みます。\nablaや\cdotの後にスペースを入れないと正しく読み込まれないので注意です。

 

それではまた!

 

 

 

 

ブログについて。

こんにちは、はみるとにあんです。今はお正月で、朝からこたつに入ってお茶とみかんを携えてこの記事を書いています。最高です。

 

さて今回はブログ開設の経緯について話します。というのも、実は以前から、ブログのようなものを書きたいなとは漠然と思っていました。自分の思考を定期的に発信できるツールが欲しかったからです。これを強く意識し始めたのは約半年前ーTwitterとミリシタを始めて、更にdiscordでミリシタの同僚さん達と頻繁に通話するようになった頃です。

この時感じたのは「一般の人に向けて自分の思考を適切・的確に発信しなければならない」ということ。偉そうに書きましたがまあ要するに「コミュ障なので治したい」ということですね。今まで学校でも同年代の人たちのみと話すことがほとんどだったので、顔も分からず年も違う方々と肉声で言葉を交わすようになって自分がいかに話下手か・・・痛感しました。いつも無口で本当申し訳ないです。

 

 

 

・・・いえ、書きながらこれは理由の真意でないことに気づきました。痛感したことも申し訳なく思っているのも、思考発信が理由であることも本当です。ただその裏にあるのは「感情を言葉(声)に変換したい」ということ。これが、たぶん、本当の理由です。僕はコミュ障ではなくて、喋ろうと思えばいくらでも喋れるのだと思います(やったことないので分かりませんが)。本当は喋る=言葉を交わすのは好きです。それが好きでないなら毎回通話に参加することもないので。

 

問題は、感情が込み上げてきたとき、それを言葉なり叫ぶなり、何かしらのアクションとして外界に現れる可能性がすごく低いということです。ここでいう言葉とは、無機質なセンテンスではなく、所謂”感情のこもった”言葉のことを指します。「感情表現がすこぶる苦手」ということです。エモい動画を見ても、担当アイドルのコミュを見ても、基本「無音」です。オタクの人は「語彙力消失」で伝わるでしょう。これの最高レベルがあらゆる場面で起こります。

 

これが1人なら問題ないですが、友人といるときや誰かと話しているときは深刻だと考えています。前にback numberさんのライブコンサートに友人と参加した時、彼は腕を上げて歌に合わせて楽しそうに動いていましたが、僕は腕を組んでじっとしていることが頻発しました。個人的にはすごく楽しかったのですが客観的に見たら「楽しくないのかな?」と思われる可能性が高いです。こういう理由もあって、FFさんとアイマスのライブに行くのはためらったりしています。

 

 

 

僕だってサイリウム降ってコールとかしたいんですけどね。なんでできないんでしょうね。アイマスのライブなら、行ったら変わるかもしれないです。心の奥底で、感情表現が僕なりの”タブー”になってるんだと思います。それもかなり高く分厚い壁のようです。歌織さんなら壊せるかもな・・・

 

 

 

まあ、ごちゃごちゃ書きましたが、伝えたいのは「一見無関心で楽しくなさそうに見えるけど、そんなことないよ!心の中では叫んでるよ!」ということです。こういう点でTwitterは僕にとっての有用なツールだったりします。Twitterの方が感情表現できてる気がするので。

 

話がそれましたね。いや、それてはないですが、本質から離れそうなので戻りましょう。

ブログの目的は「思考を発信する、その過程で感情を言葉に変換する練習をする」です。思考はいいですが、感情をどうにかして日本語にコンパイルしなければなりません。僕がビビッドな感情表現ができるようになる、その第一歩としてブログを選びました。Twitterが今のところ上手くいっているので、その文字数無制限ver.にも挑戦しようというわけです。

 

うーん、書いていてどこかズレてる気がしてきたぞ。今更なので変更しませんが・・・。また何か気づいたら新しく記事にしようと思います。まあ、僕が今思っていることを書けてはいるので大丈夫だと思います。

 

 

「それならブログじゃなくて、普通にいろんな人と会話する機会を増やした方がいいのでは?」と思われる方もいらっしゃると思います。それはその通りで、実際やるつもりです。しかし僕はブログのあるメリットに目をつけています。それは自分を振り返ることができることです。自身が自身の検閲官になるには、今の自分をどこかに記録・保存しておくことが必要不可欠です。その点でいえばブログは有用だと感じます。

 

”過去は振り返らない、前だけ見る”のような格言(?)がありますが、僕はあまり好きではありません。過去を振り返ることは未来をどのように構築するかの指針になり得るからです。だから歴史という科目は義務教育に含まれているんだと勝手に思ってます。

 

 

さて、ブログ開設の理由はこんなものでしょうか。他にも色々とファクターはありましたが主にこの2つだと感じております。未熟な文章構成力でそろそろ2000文字を突破しそうですが、ここまで付き合ってくださった方は本当にありがとうございます。普段は無口ですが普段こういったことを考えています、というのが伝わればいいなと思います。

今回は堅苦しい記事になってしまったので、次はミリシタか物理の話を書こうかなと考えております。え?物理の話も堅苦しいって?僕が楽しいので関係ないです。

 

それではまた!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初めまして。

初めまして。”はみるとにあん”という者です。この記事を書いているのは実は1月1日で、「元日から何やってんだよ!」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。僕もそう思います。何となくキリが良さそうな日なので!

 

まずは簡単な自己紹介から。アニメ視聴とゲームと物理学が趣味で、主にスマホゲーム『アイドルマスターミリオンライブ!シアターデイズ』(ミリシタ)をプレイしています。名前の由来は、物理学に登場する関数”ハミルトニアン”を単に平仮名にしたものです。響きが可愛いと感じたのでそのまま。普段はTwitterに生息しています(飽き性なので、このブログも、Twitterも突然やめるかもしれません)。現時点での明確な目標は、物理学者になって何かしらの研究をすることです。分野はまだ決まっていません。

 

ブログの趣旨について。趣旨といっても大層なものではなくて、日常のイベントや、思ったことを書いていきます。あとは、物理学で考えたことなど。ゆるーくやろうと思います。ブログを開設した理由はちょっと長くなりそうなので、気が乗ればまた別の記事に。

 

それではまた!