もーめんたむ。

公開日記のようなものです。

写し鏡と理想の像

最近『ぼっち・ざ・ろっく!』というアニメに自分でも驚くほどのめり込んでいる。原作はまんがタイムきららMAXの4コマ漫画である。極度の人見知りで陰キャの後藤ひとりは、売れ線バンドのギターカバーを配信をする日々を送っていたが、「結束バンド」のドラム担当・伊地知虹夏に強引に勧誘されて結束バンドのギター担当になってしまい・・・という導入から始まる物語である。この記事を書いている時点で第5話まで放送されているが、とにかく面白い。私は原作の漫画を読んでいないが、TwitterYouTubeを観る限り、原作理解度が非常に高くストーリーの順序入れ替えやアニオリを適度に混ぜて上手くアニメに昇華しているらしい。制作陣のセンスが大爆発しているのは原作を読まずとも確かに感じる。特に後藤ひとりの顔面崩壊芸の多様さには目を見張る物があるだろう。楽曲も素晴らしく、配信サイトでTOP10にランクインしているようである。未視聴の方は是非観てほしい。

 

 

※ここから『ぼっち・ざ・ろっく!』アニメ第5話までの若干のネタバレを含みます

 

 

『ぼっち・ざ・ろっく!』の良さ・面白さを上げればキリがないが、多くの人がこの作品に魅了される理由の一つは、後藤ひとりが「現実」と「理想」の両方を内包しているキャラクターだからであると考えている。視聴者は彼女の悩みに共感し自分の現状とリンクさせると同時に、無意識に自分の理想像を彼女のソロギタリストとしての才能に見出しているのだ。これについてもう少し詳しく書いていこう。

 

まず、後藤ひとりの悩みには驚くほどリアリティがある。後藤ひとりは第一話で自身のチャンネル登録者数が3万人を超えたとき「もう学校行きたくないなあ」と考えてしまう。この一言には、結束バンドに入る前の後藤ひとりという人間のほぼ全てが詰め込まれている。後藤ひとりはギターを始める前から、変わりたい・輝きたいという強い願望が人一倍あったはずだ。そうでなければ、バンドなら陰キャでも輝けることを知って突然ギターを始めるはずはないし、毎日6時間練習する気も起きないはずである。そして3年間の努力の末にたどり着いた居場所は現実のバンドではなくネットの世界だった。ネットの世界は唯一無二の輝ける場所であり、いつもひとりぼっちだった彼女にとって学校という現実には価値を見出せなかったのである。それは彼女の「人と関わりたいけど怖い」という性格を考えれば仕方のないことである。

 

「人と関わりたいけど怖い」という性格は後藤ひとりの"相対的な"自己肯定感の低さに起因していると考えられる。第一話の最初のシーンで「私なんかがあの指に止まっていいのかな・・・」と幼少期の頃に考えていたことから、相対的な自己肯定感の低さは彼女の人格形成前から存在する根本的なものだろう。周囲に人間がいない時、あるいは自分一人の世界に浸っている時の彼女の自己肯定感は決して低くはないが、人と関わる場合のそれ(すなわち、相対的な自己肯定感)は絶望的に低い。このギャップは、彼女の言動の面白さに直接結びついていると感じる。

 

この性格のお陰でバンドメンバー集めは全く実らなかった訳だが、彼女は「他力本願で物事上手くいくはずない」と分かっている。分かっているが性格上人に話しかけることは出来ない。だから上手くいかない現実より輝けるネットの世界の住人になりたいと考え、学校に行きたくないと思ってしまう。最後の「学校に行きたくない」という結論に至るのは飛躍に思えるが、3年間の積み重ね(学校での失敗+配信の成功)と未熟さを考慮すると高校1年生の悩みとしては寧ろ自然な思考と言えるだろう。

 

結束バンドに加入してからの後藤ひとりは、自分と結束バンドの努力・成長について考えることになる。第2話では「少しずつでも変わる努力をして"一緒に"楽しくしたい」という、他人が入り込んだ感情が芽生え始める。第5話では「自分の努力」と「バンドとしての成長」の間で思い悩むが、伊地知虹夏との会話を通して、自分がバンドをやる理由を考える。そして「私だけではなく4人でチヤホヤされたい」という新たな願望を見出した。このように彼女の「変わりたい」「成長したい」という、初めは漠然としていた強い欲求は、丁寧な段階を踏んで進化している。この感情の変遷には伊地知虹夏が(良い意味で)一枚噛んでいるのだがこれについては別の記事で書くかもしれない。

 

後藤ひとりの悩みにリアリティを感じるのは、当然我々が同じように悩んでいたことがあるからだ。このリアリティによって視聴者は彼女に共感する。それはつまり「変わりたい・輝きたい」とか「自分の殻を破りたい」「成長したい」とか考えている人間を、"陰キャ"という属性を持たせる事で大胆に体現したのが後藤ひとりということである。そういう意味で後藤ひとりは、成長したい全ての人間の代弁者たる存在であると私は考えている。

 

だが、後藤ひとりは代弁者であると同時に我々の理想像でもある。それは「ギターヒーロー」という理想である。『ぼっち・ざ・ろっく!』で描かれるのは確かに成長物語なのだが、彼女のギターの腕前は物語冒頭で既に完成されている。この物語で描かれる彼女の成長というのは、心の成長と"結束バンドのギタリスト"としての成長であって、「ギターヒーロー」としての成長ではない。彼女が序盤から持つギターの実力は、彼女の「輝きたい」という欲求に由来する、3年間の努力の上に成り立つ実力である。輝きたいという願望を持つ視聴者は、ここに後藤ひとりの「到達点」としての側面を「ギターヒーロー」として"無意識に"認識する。

 

その結果視聴者は、後藤ひとりが我々の「写し鏡」でありながら目指すべき「理想像」でもあるということを、深層心理では理解しながらも、自分では気付かぬまま作品に魅了されてしまう。彼女が持つこの性質は、視聴者の「何者かになりたい自分」に対する「成長し輝いている自分」というイデアを見事に想起させることに成功したのである。このイデアの想起こそが、この作品の隠れた本質であり最大の魅力であると私は思っている。

 

以上の論は、『ぼっち・ざ・ろっく!』を見て楽器を触りだす人の数が多い事実により支持される。アニメを観て何かを始めるには、その作品から「共感」と「理想」の両方を強烈に感じ取る必要があるからだ。私の狭いコミュニティでさえ、少なくとも3人が、このアニメの影響で何かしらの楽器を始めようとしている(かくいう私もギターを始めた)。この作品には、視聴者の心を揺さぶり行動させる「魔力」があると思えてならない。その「魔力」に誘われて私は今この文章を書いている。

「魔力」の効果がいつまで続くのか、私には見当もつかない。